column3

苦手な人がいる、という話。

日常生活で接点の多い人とは似てくる。よく会う誰かの仕草や口癖なんかが、不意に自分から出てきてはっとする経験は少なくない。嫌な人の耳障りな口癖に限って、移り易かったりする。

好きな人を真似てそれが自分と馴染んでいく感覚は何故か誇らしく、幸せだ。一方で、嫌いな人の癖が知らずの内に移っていたりすると、言い様の無い不安に襲われる。好ましくない異物に侵食され乗っ取られる。そんな想像が脳裏をよぎる。

仕草ひとつで大袈裟な話ではあるが、そういうとき私は気持ち悪い、と思う。

と言う訳で、苦手な人がいる、という話を続ける。
先日、人の欠点をあげつらい腐す時に、良心の呵責とは別のなにやら危険な感情の気配を感じた。あ、徳が下がったな、という手応えを持て余しながらその感情を整理してみた。それは、私が無意識に「その人の欠点Aを糾弾する」と「自分の欠点Aを罰して清算する」を同一視する働きのように思えた。「私は彼の行動Aを断罪したのだから、私が行った行動Aも許された!」なんと言う論理破綻。しかし何故か私の脳内では筋が通っているらしい。というか、筋が通っているという思い込みを強めているらしい。

この自己洗脳の行き着く先は明白だ。近親憎悪を繰り返し、そのたびに自分の見たくない部分に蓋をし、日々ブーメランはデカくなって行き、そのくせ自分だけは許されたという錯覚ばかり深めていく。

普段人を悪く言うことを強く嫌う一方で、気の抜けたタイミングですらすら口を滑らせる事がある。しかし、「人を指差して笑う時、中指から小指までの3本は自分を指している」という言葉もある。せめて後で落ち着いた時にでも自分を省みたい。憎悪は全て近親憎悪という仮定で生きるのが、私にとって肝要だ。

Posted by:

畳色@mossgreen

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